2012年7月21日土曜日

原発事故で変な人が炙りだされた。

2011/3/11の地震、津波災害に引き続く福島第一原子力発電所事故が起きて、福島県の一部を中心とした放射性物質の拡散が起こり東北南部から関東にかけた広い範囲が汚染され、放射線レベルが高まっています。高線量の地域では住民の強制避難がおこなわれ、より線量が低い地域では線量レベルの高いところを中心に除染作業が行われています。農産物や魚介類の線量チェックも行われており、ほとんどの住民の被曝は低いレベルにとどまっています。この大事故によっても放射線障害によってなくなったとはっきりわかる方は一人もおられません。

低いレベルの被ばくはもともと岩石や宇宙から全ての人間が受けているのですが、放射線レベルは比較的簡単に測定できるので、一生懸命測っては、どこかの側溝の落ち葉の上で1μSv/hもあったといった数値を出すことができます。溝の中で何年も座っているとかであれば気にするべきでしょうが、その脇をたまに通る程度あれば気にする必要はありません。実際には床下にずっと強い放射性物質があった住宅(家の前の道路で3.35μSv/h)に何十年も住んでいた人が特に放射線障害を受けていなかったように、はっきりした障害がでるレベルとは測定できるレベルよりはるかに高いものです。ところが、それなりの数値が出るものだから、極端な人では東京は人が住むところではないといって逃げ出したりしています。自分が逃げるだけなら社会への実害はそれほど無いですが、福島に住んでいる人を非難したり貶めたりする大学教員などが、決して多くはないもののかなりいます。


原発事故以前から、変わった人だとは思っていた人の中にそのような人がいて、ああ本当に変な人だったんだなと納得しています。本人は正義の味方のようなつもりのようですけれど。自称元ジャーナリストの上杉隆さんなどもその仲間です。


原発再稼働反対運動では、多くの人が一生懸命になっておられるようです。私は、原発を今止めたままにするというのは副作用が大きすぎて再稼働はせざるを得ないと思っているので、このような運動には全面的に反対です。これまで好きなコメンテイターだった香山リカさんのような人が「再稼働を認める人は精神科医である自分からみて病気だ」と言い出して、がっかりさせられました。坂本龍一さんにしろ大江健三郎さんにしろ芸術家が社会にも政治にも何か言っても、アイドルが社会問題に関してボケているのと同じでどうでもよいと思っています。まあ、アイドルは政治向きのことは語らないように躾けられているはずですが、老人芸術家にはそのような歯止めがないことは困りものですね。


そういえば、3/11以降炙りだされた、まともな人ももちろんおられます。司法ジャーナリストの江川紹子さんが筆頭です。ツイッターを見ていると、どのような社会問題に対しても、即座に的確な視点で発言しておられます。ツイッターではにゃあにゃあと面白い口調ですが、ふざけていると嫌う人もいるようです。前からコメンテイターの中では好きな人でしたが、3/11以降、一番信頼出来る人になりました。

エネルギー・環境の選択肢の国民的議論とCO2削減目標、数値が勇ましいほど立派だとでも

エネルギー・環境の選択肢の国民的議論が始まりました。原発依存度、ゼロシナリオ、15シナリオ、20~25シナリオに賛成する人が3人ずつ選ばれて出てきて意見を述べるという会を何回か開くというものですが、20~25シナリオに賛成する人の中に東北電力や中部電力の社員がいたということが、強い批判を受けています。中部電力は社員に注意したとか、政府が電力会社の社員は意見を述べる人には選ばないことにしたとか報道されています。さて、そうするとJAEAや電中研、大学の原子力関係者などいわゆる原子力村の専門家も出さないようにするのでしょうか。エネ総工研は?エネ経研は?素人だけの意見を述べあう会にするのでしょうか。


それにしても、中部電力社員が表明されたように、2011年3月の福島原子力発電所の事故で、放射線障害でなくなった方は一人もおられないし、このままうまく冷温停止を維持し廃炉に成功すれば、今後も放射線障害による死者は出ないでしょう。おそらく専門家でこれが間違っているという方はほとんどおられないと思います。ところが、中部電力社員はゼロシナリオ支持者からはもちろんのこと会社からも文句を言われています。酷い話だと思います。原子力発電所で働いていた労働者が津波でなくなっておられるほか、放射性物質による汚染地域からの避難や強制的な移転の際のストレス等で数多くの方がなくなっておられるそうですが、放射線障害ではなくなってはいないのです。本当のことを言って袋叩きに合うというのは、戦時中の言論統制を思い出させます。反原発で血気盛んな人々は、放射線のリスクを過大に論って実際には不要な避難を余儀なくさせて、本来失わないですんだ命をたくさん奪ったのではないかという可能性にも思いを致すべきです。


原発依存度は低く言うほどいさましい、環境にやさしい立派な人という人が多いのでしょうが、私は、鳩山由紀夫氏が総理大臣の時2009年に、CO2排出目標を2020年に1990年比-25%を目指すという鳩山イニシアチブを、急に国連で表明したことを思い出します。鳩山氏は大きな数値目標を掲げるほど環境を重視している地球にやさしい立派な行動だと思って発言したのでしょうが、エネルギーや環境の専門家でそれなりの根拠があるまともな政策目標と考えた人はいないと思います。一部の環境運動家や素人の中には、数値目標は高いほど立派だ、目指すだけでやるといったわけでないので実現できなくても良いとか無責任に支持をする人もいました。


今回の国民的議論の3つのシナリオに関しても、ネットやテレビでの討論などで見る意見では、子を持つ母親だからゼロとか、経済より命を大切にするためにゼロとか、日本の技術を使えば再生可能エネルギーで成長できるのでゼロとか、エネルギーの財界と官僚の支配から市民が取り戻すためにゼロといった、情緒的な意見しか見かけません。いさましい数字を言って、それを支持してヒロイックな感情に浸っているだけに見えます。首相官邸前や国会のデモなどいくら数が多くなっても、太平洋戦争の開戦時のお祭り騒ぎと根っこは同じで、それだけでは何も解決しないと思います。

マスコミや、反原発の専門家は、実現性のある対案を出すべきです。エネルギーは、経済、社会、安全保障、科学技術の広範な分野に係わる課題です。原発ゼロ、再稼働ゼロを実現するのは、太平洋戦争で日本が連合軍を相手にして勝つためには何をどうするべきであったかと同じような難題だと思います。大和魂や神風、神州日本やらで勝てるのだと国民を煽った戦前戦中の新聞や知識人と同類だとしか思えません。