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2009年8月7日金曜日

Siena シエナ

Google EarthやGoogle Mapで、ちょっと知っている場所を眺めるのはとても面白いです。特に旅で訪れたところを上から、斜めから眺めるというのは広い範囲を大雑把にでも理解するということで、地面を移動していった旅ではわからなかったことがわかるということで、とても興味深いことです。

2000年だったと思いますが、イタリアのシエナへ行きました。郊外の施設で小さなワークショップが開かれて、参加しました。日本からは一人でした。初めてイタリアに行ったということもあってかなり緊張していました。航空会社は忘れましたが、成田からミラノのマルペンサ空港まではJALかANAだったでしょうか忘れてしまいました。ミラノで降りて、フィレンツェ行きに乗り継ぐのですが、掲示もイタリア語が中心のところ英語を探してたどっていくと一旦空港ビルの外へ出てしまいました。

ちょうど同じ便に乗ってきた日本人の中年女性が同じ方向へ歩いておられて、いっしょにフィレンツェ行きのゲートにたどり着きました。ゲートの前の待合室には十数人しかおらず、日本人は我々だけで、ちょっと話をしました。日本人同士は海外では滅多に知らない同士で話しかけたりはしませんが、2人だけだったことと、道がわかりにくかったことで多少親近感があったからでしょうね。その女性は、お子さんがフィレンツェでレストランか何か店を出していて、その手伝いに行くのだといった話でした。私はその先シエナまで行くという話をしました。

フィレンツェまではアリタリアでしたが、これが20人乗り程度のプロペラ機でした。幹線だと思っていたのでこれには驚きました。乗り込むと、CAは女性一人で、例によって飛び上がる前に救命胴衣の説明などをやるのですが、このころすでにビデオで済ます便が多くなっていたのに、このサイズではさすがに実演が必要でした。この女性は、やる気なさそうに斜め先を見ながらやっていました。客の方も見ていないのでどっちでもいいですが、誰も見ていなくても普通はやっているので、イタリア人とは…、とほとんど最初に見たイタリア人女性から、一般論を述べたくなってしまいました。

フィレンツェには何事もなく着いて、タクシーで一人で駅に近いホテルに行きました。古い町の駅前ということで、落ち着いたホテルでした。このころは電話線でインターネットにつなぐという時代で、一応プロバイダのローミングを利用してメールのチェックなどをしました。ホテルから外へ散歩に出てほんの5分ほどしたとき、大声で怒鳴る声と走って逃げる子供に出くわしました。イタリアには多いといわれる噂のスリです。緊張して翌日シエナまで行く列車に乗る予定の駅まで行きました。言葉に不安があるのと気が小さいのとで、時間があれば事前にチェックする習慣です。切符売り場やホームを確認して来ました。フィレンツェの駅は、ヨーロッパではよくあると思いますが、全部の線路が突き当たるようになっています。つまり幹線から線路が引き込まれて来ているのです。Google Earthで駅を見るとよくわかりますね。ホームは皆低いもので、列車にはステップがあって何段か昇って乗り込みます。

駅を確認してから町の中を1~2時間ほど歩きました。翌朝も早く起きたので1~2時間ほど町の中を歩きました。どこかの建物に入るということは出来ませんでしたが、大きな教会は壁一面に様々な彫刻で飾られているのでとても見応えがありました。Google Earthでもよく見えます。この夜はどこで何を食べたか、何も覚えていません。

翌朝、ホテルをチェックアウトして、駅に行き切符を買いました。シエナ1枚と言ってすぐ買えるというつもりだったけれど、言ってみると、ラウンドかと聞かれました。周遊券と言っているのかとどぎまぎしましたが、聞いてみると単なる往復のことでした。もう少し英語を学ばなければというところでした。

この便については、当時イタリアの国鉄がWebでサービスしていたシステムで存在は事前にわかっていましたが、路線図とか地図とか、駅時刻表がわからなかったので、どのくらいで着くのかはわかりませんでした。Googleマップなどもなく、フィレンツェとシエナの位置関係もよくわかっていませんでした。

とにかく、列車に乗ると適度に客もおり、適度にすいていて快適でした。列車は6両くらいだったと思いますが、最後尾には自転車の絵が描いてあり優先車両のようでした。プラットフォームには駅員はおらずいくつか立っている改札機で乗車時刻を切符に刻印して乗りました。不安なのはシエナを乗り過ごしてしまうことなのですが、あと何駅かということがわからないので、駅に止まるたびに駅名を読んで緊張していました。ある駅に着いたあとに、反対向きに走り出しました。これには驚きましたが、別にフィレンツェに戻るというわけではなく先に進んでいき、まもなくシエナに着きました。よく覚えていませんが8時頃に乗って10時前に着いたのではないかと思います。

夕方までに、シエナの郊外のワークショップ会場に行けばよいという予定だったので、町を見物することにしました。荷物を駅に預けて、歩いて町に向かいました。町は丘の上にあり、町の周りは石の塀で囲まれています。駅は麓の平地にあります。この状況はそのときにはわかっていませんでしたが、Google Earthでシエナとして検索して拡大していくと、駅は町の北西にあることがわかります。線路は単線ですが、引き込み線や小さいですが車庫もあるようです。南西に向かって坂をのぼり右に曲がると塀があり、中の古い町に入っていきます。広い道が突き当たると左へ細い道を上っていきます。古い町なので街中は石畳で、車が走るのは大変な道の狭さです。面白いのは古い石造りの家ばかりですが、土産物屋などはちゃんとけばけばしい飾り付けがされていることです。

細い道をずっと上って一番高いところへ来た頃に、左側の建物の間から短い通路を隔てて広いところがあるように見えたので、入ってみると有名な広場に出ました。広場はすり鉢状にへこんでいてその縁に立っていました。観光客が広場にも、私がいる縁にも一杯でした。縁の部分には土産物屋とカフェがいくつもあり、カフェでピザとビールで昼飯にしました。このとき驚いたことに、近くの席にワークショップの主催者の研究者らがいたことです。しばらくすると、ラッパや太鼓の演奏と共に大きなカラフルな旗を持った一団が広場に登場して、にぎやかに行進を始めました。広場でひとしきり演技をすると、階段を昇って街中の道を行進していきました。私は土産物屋を冷やかしてから駅に戻り、タクシーでワークショップの会場に移動しました。

この肝心の会場はもう名前も覚えていないので、Google Earthでも探せないのですが、駅から20分くらい走った畑地帯の小高い丘の上の元々は修道院のような古い建物でした。Google Earthで見るとそれらしい感じの場所はいくつもありますが、同定は出来ませんでした。周りはオリーブかぶどうの畑か林で、快適な散歩コースもありました。周りには人家はまったくありませんでした。大学の施設で合宿のワークショップなどのためのものではあるのですが、物置には壊れかけた古い農具があったりして本当に面白かったです。部屋は2人部屋でアメリカ人の学生と一緒でした。部屋は薄暗いし、作業や議論をする部屋が快適なのでそちらにいることが多く、あまり部屋にはいませんでした。

ワークショップは2泊で、研究者が集まり研究提案をまとめたり、論文の打ち合わせをしたりしました。朝食、コーヒーブレイク、ランチ、ディナーと大量の良質な料理とワインやビールを頂いて、大いに楽しみました。日本人は一人だし、ネットもないし、テレビもなしで、緊急連絡用に電話、FAXの番号を職場や家に残してはありましたが、日本で何があっても何もわからないという環境でした。

ワークショップが終わると、タクシーで駅まで戻りました。多くの参加者はレンタカーできており、ドイツの研究者と一緒に駅まで同行しました。彼はKierの人でユーロスターで帰るということでした。よく覚えているのは、彼はリラを持っていないというのでタクシー代を私が払ったということです。今ならユーロなのでこのようなことはないですね。

列車に乗ってフィレンツェにつくとそのままタクシーで飛行場へ移動して順調に帰宅することが出来ました。フィレンツェでもミラノでも何もする余裕もなくかえりました。トラブルがなかったためか帰りのことはほぼ10年たった今ではほとんど何も覚えていません。ヨーロッパには会議でしか行ったことはありませんが、最初から最後まで日本人は一人だったというのはこのときだけです。イタリアにはこのあと2001年にシシリーに行きましたが、そのときも強い印象が残る旅でした。

2009年6月30日火曜日

ケープタウン、喜望峰

12年前に、調査航海のためにケープタウンへ行きました。
シンガポール、ヨハネスブルグで乗り換えて、20時間くらいかかったと思います。ケープタウンの港で調査船に乗り、その後調査をした後はチリのバルパライソで降りて、マイアミ、ロサンジェルスで乗り換えて、日本に帰りました。世界一周したわけです。このときは西回りだったので、80日間世界一周の人と逆で日数は1日少なくなったのでした。もちろん移動中の1日の時間が長いからですが。

ヨハネスブルグでは入国審査に時間がかかりあわててやっと乗り換えに間に合ったという感じでした。入国審査というのはどの国もそうですがやたら時間がかかる時があり、窓口が少ない場合には本当にいらいらします。多くの人を長時間待たせているのにのんびりと動いている係官を見ると怒りたくなりますが、にらまれて入れなかったらばかばかしいので皆羊のように従順です。犯罪者がときどき混じっているということはあるでしょうが、単なる一時的な旅行者にはいらだたしく感じられますね。入国審査は現在のEUではどこもとっても簡単で速い、ただしイギリスはとっても遅い、アメリカの場合は審査はちゃんとやる方ですがほとんど列のコントロールがされているので極端に遅くはありません。

一行は10人くらいだったと思いますが、ケープタウンの空港から港までは、旅行社手配の大型バスで異動しました。その日は土曜か日曜で、道路も空いていて、町も人気があまりありませんでした。面白いことにバスにはバスの運転手の10才くらいの息子が乗っていました。休みだからお父さんの仕事に着いてきたという感じでした。

ケープタウンの港は、その頃世界各地で進んでいたウォーターフロント開発が行われて、しゃれた店やレストランがたくさん集まっていて多くの家族連れでとてもにぎやかでした。その頃シドニーに何回か行きましたが、シドニーのウォーターフロントと似ています。

船は補給のために3日ほど入港していて、我々は入港日に着いてそのまま乗船しました。入港中には日本から乗ってきた船員などと一緒に、テーブルマウンテン、喜望峰に見物に行きました。

テーブルマウンテンはケープタウンの町の南にそびえていて頂部が真っ平らで、港から見ると本当に絶景です。近代的なロープウェイ(Cableway)で頂上まで行けて、上から見るとまたすばらしい眺望が得られます。

喜望峰までは、バスで途中のワイナリーによって、海岸でペンギンを見てから行きました。岬の先の方には人かがほとんどなく、ずっと草原の中をひたすら進み、途中で野生のダチョウを見たりしました。先端に行くと土産物屋もあってその駐車場の先に展望台があって、10分近く歩いていったと思います。展望台からは岩場が見えて、聴いたことはないですがワーグナーの「さまよえるオランダ人」に出てくるらしいです。幽霊船がこのあたりに出ていたという話ですね。アフリカ最南端のような錯覚をしますが、地図で見るとよく分かりますが、喜望峰は別にアフリカ最南端ではなく南西に突き出ているだけです。

さて、ケープタウンは日曜に街中を少し歩いたら、ビルが建ち並ぶダウンタウンにほとんど人気がなく怖かったのを覚えています。また、バスで移動中に何カ所か難民キャンプがあり、かなり広いところでおそらく数千人以上がすんでいそうでした。内陸の農民が飢饉があって町に出てきて、働くところもなく戻ることも出来ないということらしいです。一方、海岸近くには瀟洒な豪邸がいっぱいあって、どの家も高い塀で囲まれていて、その塀には申し合わせたようにセコムのようなセキュリティのシールが貼ってありました。国全体としてはかなり豊かですが、貧富の差はとにかく激しいです。

その後、何ヶ月かたって日本の新聞で、ケープタウンのウォーターフロントで爆弾テロがあったというニュースを見ました。南アフリカに行ったのはこの1回だけですが、美しい自然、豊かな国という印象と、恐ろしいというイメージが残っています。今度ワールドカップが開かれますが、事故や事件がなければいいですが心配ですね。