Google EarthやGoogle Mapで、ちょっと知っている場所を眺めるのはとても面白いです。特に旅で訪れたところを上から、斜めから眺めるというのは広い範囲を大雑把にでも理解するということで、地面を移動していった旅ではわからなかったことがわかるということで、とても興味深いことです。
2000年だったと思いますが、イタリアのシエナへ行きました。郊外の施設で小さなワークショップが開かれて、参加しました。日本からは一人でした。初めてイタリアに行ったということもあってかなり緊張していました。航空会社は忘れましたが、成田からミラノのマルペンサ空港まではJALかANAだったでしょうか忘れてしまいました。ミラノで降りて、フィレンツェ行きに乗り継ぐのですが、掲示もイタリア語が中心のところ英語を探してたどっていくと一旦空港ビルの外へ出てしまいました。
ちょうど同じ便に乗ってきた日本人の中年女性が同じ方向へ歩いておられて、いっしょにフィレンツェ行きのゲートにたどり着きました。ゲートの前の待合室には十数人しかおらず、日本人は我々だけで、ちょっと話をしました。日本人同士は海外では滅多に知らない同士で話しかけたりはしませんが、2人だけだったことと、道がわかりにくかったことで多少親近感があったからでしょうね。その女性は、お子さんがフィレンツェでレストランか何か店を出していて、その手伝いに行くのだといった話でした。私はその先シエナまで行くという話をしました。
フィレンツェまではアリタリアでしたが、これが20人乗り程度のプロペラ機でした。幹線だと思っていたのでこれには驚きました。乗り込むと、CAは女性一人で、例によって飛び上がる前に救命胴衣の説明などをやるのですが、このころすでにビデオで済ます便が多くなっていたのに、このサイズではさすがに実演が必要でした。この女性は、やる気なさそうに斜め先を見ながらやっていました。客の方も見ていないのでどっちでもいいですが、誰も見ていなくても普通はやっているので、イタリア人とは…、とほとんど最初に見たイタリア人女性から、一般論を述べたくなってしまいました。
フィレンツェには何事もなく着いて、タクシーで一人で駅に近いホテルに行きました。古い町の駅前ということで、落ち着いたホテルでした。このころは電話線でインターネットにつなぐという時代で、一応プロバイダのローミングを利用してメールのチェックなどをしました。ホテルから外へ散歩に出てほんの5分ほどしたとき、大声で怒鳴る声と走って逃げる子供に出くわしました。イタリアには多いといわれる噂のスリです。緊張して翌日シエナまで行く列車に乗る予定の駅まで行きました。言葉に不安があるのと気が小さいのとで、時間があれば事前にチェックする習慣です。切符売り場やホームを確認して来ました。フィレンツェの駅は、ヨーロッパではよくあると思いますが、全部の線路が突き当たるようになっています。つまり幹線から線路が引き込まれて来ているのです。Google Earthで駅を見るとよくわかりますね。ホームは皆低いもので、列車にはステップがあって何段か昇って乗り込みます。
駅を確認してから町の中を1~2時間ほど歩きました。翌朝も早く起きたので1~2時間ほど町の中を歩きました。どこかの建物に入るということは出来ませんでしたが、大きな教会は壁一面に様々な彫刻で飾られているのでとても見応えがありました。Google Earthでもよく見えます。この夜はどこで何を食べたか、何も覚えていません。
翌朝、ホテルをチェックアウトして、駅に行き切符を買いました。シエナ1枚と言ってすぐ買えるというつもりだったけれど、言ってみると、ラウンドかと聞かれました。周遊券と言っているのかとどぎまぎしましたが、聞いてみると単なる往復のことでした。もう少し英語を学ばなければというところでした。
この便については、当時イタリアの国鉄がWebでサービスしていたシステムで存在は事前にわかっていましたが、路線図とか地図とか、駅時刻表がわからなかったので、どのくらいで着くのかはわかりませんでした。Googleマップなどもなく、フィレンツェとシエナの位置関係もよくわかっていませんでした。
とにかく、列車に乗ると適度に客もおり、適度にすいていて快適でした。列車は6両くらいだったと思いますが、最後尾には自転車の絵が描いてあり優先車両のようでした。プラットフォームには駅員はおらずいくつか立っている改札機で乗車時刻を切符に刻印して乗りました。不安なのはシエナを乗り過ごしてしまうことなのですが、あと何駅かということがわからないので、駅に止まるたびに駅名を読んで緊張していました。ある駅に着いたあとに、反対向きに走り出しました。これには驚きましたが、別にフィレンツェに戻るというわけではなく先に進んでいき、まもなくシエナに着きました。よく覚えていませんが8時頃に乗って10時前に着いたのではないかと思います。
夕方までに、シエナの郊外のワークショップ会場に行けばよいという予定だったので、町を見物することにしました。荷物を駅に預けて、歩いて町に向かいました。町は丘の上にあり、町の周りは石の塀で囲まれています。駅は麓の平地にあります。この状況はそのときにはわかっていませんでしたが、Google Earthでシエナとして検索して拡大していくと、駅は町の北西にあることがわかります。線路は単線ですが、引き込み線や小さいですが車庫もあるようです。南西に向かって坂をのぼり右に曲がると塀があり、中の古い町に入っていきます。広い道が突き当たると左へ細い道を上っていきます。古い町なので街中は石畳で、車が走るのは大変な道の狭さです。面白いのは古い石造りの家ばかりですが、土産物屋などはちゃんとけばけばしい飾り付けがされていることです。
細い道をずっと上って一番高いところへ来た頃に、左側の建物の間から短い通路を隔てて広いところがあるように見えたので、入ってみると有名な広場に出ました。広場はすり鉢状にへこんでいてその縁に立っていました。観光客が広場にも、私がいる縁にも一杯でした。縁の部分には土産物屋とカフェがいくつもあり、カフェでピザとビールで昼飯にしました。このとき驚いたことに、近くの席にワークショップの主催者の研究者らがいたことです。しばらくすると、ラッパや太鼓の演奏と共に大きなカラフルな旗を持った一団が広場に登場して、にぎやかに行進を始めました。広場でひとしきり演技をすると、階段を昇って街中の道を行進していきました。私は土産物屋を冷やかしてから駅に戻り、タクシーでワークショップの会場に移動しました。
この肝心の会場はもう名前も覚えていないので、Google Earthでも探せないのですが、駅から20分くらい走った畑地帯の小高い丘の上の元々は修道院のような古い建物でした。Google Earthで見るとそれらしい感じの場所はいくつもありますが、同定は出来ませんでした。周りはオリーブかぶどうの畑か林で、快適な散歩コースもありました。周りには人家はまったくありませんでした。大学の施設で合宿のワークショップなどのためのものではあるのですが、物置には壊れかけた古い農具があったりして本当に面白かったです。部屋は2人部屋でアメリカ人の学生と一緒でした。部屋は薄暗いし、作業や議論をする部屋が快適なのでそちらにいることが多く、あまり部屋にはいませんでした。
ワークショップは2泊で、研究者が集まり研究提案をまとめたり、論文の打ち合わせをしたりしました。朝食、コーヒーブレイク、ランチ、ディナーと大量の良質な料理とワインやビールを頂いて、大いに楽しみました。日本人は一人だし、ネットもないし、テレビもなしで、緊急連絡用に電話、FAXの番号を職場や家に残してはありましたが、日本で何があっても何もわからないという環境でした。
ワークショップが終わると、タクシーで駅まで戻りました。多くの参加者はレンタカーできており、ドイツの研究者と一緒に駅まで同行しました。彼はKierの人でユーロスターで帰るということでした。よく覚えているのは、彼はリラを持っていないというのでタクシー代を私が払ったということです。今ならユーロなのでこのようなことはないですね。
列車に乗ってフィレンツェにつくとそのままタクシーで飛行場へ移動して順調に帰宅することが出来ました。フィレンツェでもミラノでも何もする余裕もなくかえりました。トラブルがなかったためか帰りのことはほぼ10年たった今ではほとんど何も覚えていません。ヨーロッパには会議でしか行ったことはありませんが、最初から最後まで日本人は一人だったというのはこのときだけです。イタリアにはこのあと2001年にシシリーに行きましたが、そのときも強い印象が残る旅でした。
0 件のコメント:
コメントを投稿